レマハノート

しくじりや やらかした事

義父の世話を始める3

義父はデイケアに行くのが楽しみになったようで、通所日を増やしてもらい週3日通うようになりました。

週2日は訪問介護でヘルパーさんに来てもらい冷蔵庫に買いだめしている冷凍うどんなどを温めて出してもらうようになったので昼食の心配が無くなり妻の負担が激減しました。

思いがけないほど順調に事が進んで本当に良かったです。何より義父がデイケアに張り切って出掛けて行き楽しそうに帰って来る事が嬉しいです。

毎日僕の家で缶ビール一本と夕食を出して一本しか飲んでないのにベロンベロンに酔っぱらう義父をアパートへ送って行き部屋のゴミと洗濯物を持って帰って洗濯するのは以前と変わりませんが慣れてきたのか当たり前になると苦痛じゃなくなってきました。

そんな毎日が過ぎていました。

それなのに僕は義父にひどいことを言って泣かしてしまいました!

認知症とわかっているのにもかかわらずじいさんに何故あんなひどいことを言ってしまったんだろう?

今僕は僕自身の心の狭さ不甲斐なさを痛感して自己嫌悪に陥っています。

それは膵臓から全身に癌が転移して緩和ケア病棟で残された短い時間を過ごしている義母から僕への電話から始まりました。

力のない声で「お願いがあるんじゃ、きいてもらえるか?」と義母「何でも聞いてあげるで、何?」と僕、「押し入れの中に三味線が二本あるのでその一本を○○さんへもう一本を△△さんへ届けてもらえんか?」と義母、「よっしゃわかった」と僕。

二人の住所と連絡先を調べて連絡すると二人とも義母と長年一緒に過ごした音楽仲間で義母を凄く慕ってくれているようで快く引き受けてくれました。

アパートの押し入れからその三味線を取り出して持って行く準備を始めた時でした。

義父が「その三味線をどうするんなら?」と聞くから「お母さんは大切にしてきた三味線を今後も大切にして弾いてくれる人に使ってもらいたいからその人達の所へ持って行って渡すよう頼まれたんじゃ」と僕が説明しました。

すると急に義父が「勝手に持っていくな!」と怒鳴りました。思わず「ええっ」と声が出てしまい、その時ちょうど義母から僕に電話が掛かったので出ると義父が「わしに代れ!」と言うので代わりました。すると義父が義母に大声で「あんな高価な物をなんであんな人にただでやらんといけんのんなら?」「勝手な事を言うな!」と怒鳴りつけました。

お互いの押問答があり電話が終わって義父が僕に「もうほっといてくれ〜!」「持ち出さずに置いておいといてくれ!」ときつい口調で言うので僕はカチンと頭に来てしまって義父に「お父さんええかげんにせ~よ!」「もうしらんぞ!」「気分がわりいな~!」と怒鳴ってしまいました。

すると義父が「おばあちゃんの物が無くなるのが寂しいんじゃ~!」と言いながら泣き出してしまいました。

あ〜やってしまった!頭の中をその言葉が駆け巡りました。

僕は思わず義父の肩を撫でて「ごめんなさい。言い過ぎた。嫌な言い方をしてごめんなさい。お父さんの気持ちを考えずにごめん」と謝りました。

三味線はそのままにしておいて帰りました。

妻にそのことを伝えると「あんたはいらん事を言ったな~!認知症は心を傷つけられた事やショックを受けた事だけは記憶に刻み込まれて忘れないんで!これであんたは敵として認定されたわ~!」

「僕の度量はなんと狭くて情け無いんじゃろか?」と僕が呟くと

「あんたは昔から変わらず心の狭い男じゃからな〜!」「あんなボケた爺さんを泣かしてからひどい人じゃ〜!」と.....

落ち込んでいる所に追い討ちをかけられました。

「あ〜あ、爺さんは僕のことが好きで僕に会いたくてうちに来ていたのに、全てが台無しになってしまったな〜」「もう取り返しがつかんよな〜」とひとりごとを言いながら落ち込んでいます。

 

 

 

ぎっくり腰

あれは5年前、12月のとても寒い朝だった。

膀胱がパンパンで目覚めてトイレに駆け込んだ。

パジャマのズボンとパンツを下にずらして、放水してもズボンとパンツにかからないように、しぼんだマグナムを出来るだけ引っ張り出して腰を前に押し出した時、腰に強い痛みが!

そのまま後ろへ倒れて背中が床に打ちつけられそうになったので反射的に思いっきり腰に力を入れてしまいさらに激痛が走った。

結局そのまま倒れ込んでしまった。

1ミリでも動こうものなら腰の周りの筋肉がつって今まで経験したことのない強烈な痛みで微動だに出来ず。

「助けてくれ〜」となんとか叫ぶと「あんた何しょん?」と妻が駆け寄って来て倒れている僕を起こそうとして腕を引っ張ったから大変!思わず「痛い!触るな~」と叫んだ。

冷たいトイレの床から廊下に渡って仰向けで倒れて膀胱はパンパンのまま20分程経過したと思う。

もう我慢しきれなくなって来ていた。

ふと閃いた。

4リットルの焼酎のペットボトルがあるはずだ。あれなら口が大きいから入るはずだ!

妻に持ってきてもらいペットボトルの口にマグナムの先端を入れようとしたが入らない!

ペットボトルの口が小さくて無理だ!

と思った時すでに遅し、噴射始めたのでそのままペットボトルの口をマグナムの先端の押し付けた。

それから動けないまま何時間経っただろう。

廊下がこんなに硬くて冷たいとは、しみじみ感じた。

その日から会社を休んで寝たきり状態、2週間後整形外科でMRIを撮ると脊柱管狭窄症で手術しないと治らないとの事。

手術は嫌なのでネットやYouTubeやで自力で治す方法を調べたらいくらでも出て来たので自力で治そうと決めた。

脊柱管狭窄症との長い戦いが始まった。

散々なカラオケ大会

僕はバンドではギター担当ですが歌うのが大好きで、コロナが発生する前は同僚やバンド仲間や取引先の人やらとスナックやラウンジやカラオケボックスなどでよく歌っていました。シャ乱Qのシングルベッドが十八番です。

ある時、超お得意様取引先の会長から誘われてその企業の新年会を兼ねたカラオケ大会に出場する事になりました。

その企業は新年会にグループ企業の代表や代議士やら議員やら銀行の頭取など集めて毎年120人規模の新年会の中で数人がカラオケをやるというスタイルでやっていましたが、今回は少人数に絞って「選抜カラオケ大会」に変更して行われました。

会場にはステージと円形のテーブルの宴席が8つ、ステージの真正面に審査員席、プロの司会者とビデオ撮影の方とカメラマン、エントリー14人中5人が入賞、賞金や賞品の紹介がなされて、緊張とワクワク感が高まっていました。審査員は誰かの紹介でこの企業の会に初めて出席する日本コロンビアからCDを出している60代の女性演歌歌手でした。

事前打ち合わせで「ステージではまずエントリーナンバーと氏名と曲名を言って下さい」と指示されました。

トップバッターはかっぷくのいいしゃがれた声の○○市議会議長でした。見事に歌い上げて拍手喝采を浴びながらお辞儀をして終えたところで審査員からの講評が述べられました「なぜ前を向いて歌わないんですか?」と質問され、えっ!という感じで市議会議長が「いや~前ですか~?」と返すと審査員から「モニターの歌詞ばかり見ていてお客様の方を見ていないじゃないですか!もっと堂々と前を向いて歌いましょう!」とピシャリと返されて市議会議長は苦笑いしながらステージを降りました。

2番手は○○市議会議員でこの方もかっぷくが良くて声は太くてなめらかで上手でした。同じく見事に歌い上げて拍手喝采を浴びながらお辞儀をして終えたところで審査員からの講評が述べられました「なぜ口を開けて歌わないんですか?」今度はそう来たか!と思わず吹き出しそうになりました。市議会議員が「口ですか~?」と返すと審査員から「体は大きいのになぜ口は大きく開かないんですか?」「もっと大きく口を開けて歌いましょうね!」とアドバイスされて肩を落としてステージを降りて行きました。

3番手が僕でした。「エントリーナンバー3番○○です。松山千春さんの恋を歌います。宜しくお願い致します」と言ってお辞儀をして、イントロが流れて、歌が始まりました。前の二人に対しての指摘された所に気を付けてお客様の方を見ながら大きく口を開けて最後まで歌い切りました。拍手喝采でどうだ文句のつけようがないじゃろうと悦に入っていたら審査員から「あなたはどこか痛いんですか?」と質問されました。「いいえ何処も痛くありませんがどうかしたんですか?」と返すと審査員から「痛そうな顔をして歌ってましたよ!」と返されました。

どうも眉間にしわを寄せて歌っていたようでそこを指摘されたんです。ステージ上で恥をかかされた気分になり「なんなんじゃこのおばはんええかげんにせ~よ~」と思っていたら審査員から「でも一つだけ良い所がありましたよ!」「1番と2番の間のお辞儀が良かったですよ」と言われました。でも全く嬉しくありませんでした。

その後、10人が歌い、審査員から批評を浴びせられて、最後の1人となりました。

最後の1人は主催者の代表取締役会長で、いつもは毎年の新年会の最後に北島三郎の歌を歌って全員総立ち手拍子の後割れんばかりの拍手で盛り上がって締めの挨拶をして終わる、という流れが恒例になっていました。

ところが変な緊張感が漂っていたのか手拍子はまばらで立ち上がる事も無く会長の歌が終わり、審査員の講評が始まりました。「選曲が良くないです!会長の声に合っていません。声に会った選曲をしてください!」とみんなの前で否定的なコメントをされたんです。

常に堂々としてどんな人物とも渡り合って緻密で豪快で誰からも尊敬されるあの会長が今まで見たことがない泣きそうな表情になりました。

そして結果発表です!飛びぬけてうまい方はいなかったので僕自身は3位くらいには入るだろうと思っていました。ましてや14人中5人が入賞するんだから入賞は確実だろうと確信していました。ところが入賞さえしませんでした。「嘘だろう?」思わず口に出してしまいました。それに会長さえも入賞しませんでした。会長は僕以上にショックだったと思います。

最後に会長は気を取り直してなんとか元気に締めの挨拶をして閉会となりました。

先日その企業の副社長とその時の話になり「散々なカラオケ大会でしたね〜」と盛り上がりました。

 

 

 

 

 

義父の世話を始める2

ケアマネージャーに幾度と相談を重ねて事態が少し動き始めました。

デイケアに連れて行ったが男性が少なく、身体的に弱った方が多く、暗くて「あんな所に連れて行くとはちばけるな!ぼけじじいじゃねえぞとぼけるな!二度と行かん!」と怒り散らす始末。

僕が休みの日に弁当を届けると一人で食べるのが寂しくて「なんで持ってくるんなら!わしが行ったら邪魔なんか?」と怒る。

晩飯は僕の家に呼んで食べているから寂しくないけど、なんにせよ一人でおる事が寂しくてたまらないようだ。

ケアマネージャーに相談していたら、もっと元気な老人がいるデイケアを見つけてくれたので見学に連れて行くと、女性の施設長がすごく歓迎して出迎えてくれました。

「お父さん、よく来てくれたな~、会いたかったんよ、来てくれてありがとう!」

緊張していた義父の顔が和らいだ。さすがプロだと思いました。

でも義父は今後そこに通所する事は嫌がって「わしの勝手にさせてくれ~」とデイケアの施設長や僕たちに向かって叫びました。きっと不安なんだろうなと思いました。

数日後、半日のお試しコースに連れて行き、義父を預けて帰りました。

帰る僕達を見て不安そうな義父。

「わが子を保育園に初めておいて帰った時みたい」と妻が言いました。

 

「どうも楽しかったみたい」半日後明るい顔で帰って来たと妻から聞いてほっとしました。

そして週2日通所する事になりました。

義父は夕食を食べながら「あそこの人はみんな良い人じゃ~」と笑顔で喋ります。

行くのが楽しみになったようなので要支援1の範囲でもう1日増やして最多の週4日にしてもらうようにしました。

デイケアの女性スタッフの歓迎の仕方がスナックのママやホステス以上なんじゃ~!男はいちころになるで~」とデイケアの素晴らしさを僕の同僚に話していると同僚が

「スナックが存続するのは話を否定しないのと褒めてくれるかららしい」と奥さんから聞いたとの事

「家では妻に否定され、仕事でも褒められること無いから、否定されず褒めちぎってくれるスナックに通うんだ」「男は単純だから」「女性は違うらしいけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

義父の世話を始める1

僕は現在63才長年勤めた会社に再雇用してもらいあと1年数か月で退職、趣味のバンド仲間とあちこちでライブ出演して楽しんでいます。妻は60才短時間パートで奥様同士の旅行仲間と時々出掛けて楽しんでいます。長男33才は結婚して独立。僕の両親は既に他界していて面倒を見ないといけない人はいない状態。順風満帆でもうすぐサラリーマン人生を終えてゆっくり妻と自分達の時間を過ごせると思っていました。

 

ところが、まさか、こんな状況になるとは!

 

現在88才の義父が現役時代は零細企業の経営者で仕事はバリバリこなすけど、几帳面で真面目で頑固で男は仕事だけして女は仕事もした上に家事をこなすべきという考えの持ち主です。

義母は長年看護総婦長で仕事をバリバリこなして几帳面で真面目な方です。

 

義弟(当時30才)夫婦と義父夫婦が共同で家を建てて同居することになりました。

同居するとすぐ義父夫婦に子供が生まれ2年後また子供が生まれ賑やかで幸せ一杯な家族に思えました。

ところが義弟の奥さんは無口で内気な性格で、几帳面でエネルギッシュな義父母とそりが合わず、ストレスが積もり積もって鬱状態になって行きました。

義弟が「妻が鬱病になりこれ以上一緒に住めないから自分たちが出ていこうと思う」と義父母に言うと義父母は「それなら私たちが家を出て行く」と言ってたまたま空いていた僕の家の近くのアパートに引っ越しました。

僕達夫婦と義父母は一緒に旅行に行ったり居酒屋に行ったり僕の家で餃子パーティーをしたりで良好な関係でした。

義父母は掃除や片付けや食事の仕方など細かい事が気になって僕達夫婦にも指摘してくるので、うざいな~と思う事も多く、義弟の奥さんも大変だったんだろうなーと理解していました。

義父は4年ほど前からアルツハイマー認知症になり始めており、少し進んできた頃でした。元々心臓が弱い義母が膵臓がんから肝臓がんから全身に転移していて半年もたないことが検査でわかり入院して終末医療を始めました。

義母の入院で長年連れ添った話し相手がいなくなり義父のアルツハイマー認知症が急速に進みました。

義父は義母が末期がんで入院している事を説明しても1分後にはわからなくなってしまい「何処にいったんか?」と聞くようになってきました。又、怒りっぽくなっても来ました。

僕の妻が毎日昼食を届けに行き、仕事で行けない日は介護センターから弁当を届けてもらうようにしました。

でも受け取った弁当をレンジに入れてそれを忘れて弁当が届かないと怒りまわるようになり、昼食を妻か僕が届けるように、休日は我が家にて昼食を食べるようにしました。

又、晩は僕の家で晩飯を一緒に食べるようにしました。

仕事から帰ってから同じ話を繰り返す義父の話を聞いて勇気づけて食事するのが日課となりました。

義父は自分で建てたはずの家に帰る事を実の息子に拒まれ施設に入ってほしいと言われた事がショックで毎晩食事の時怒り散らします。

ネットで調べると、アルツハイマー認知症は記憶力が無くなっても、ショックな事、馬鹿にされたこと、自尊心を傷つけられた事は鮮明に記憶されるようです。

嫌なムードにならないように出来るだけ昔の義父の武勇伝を聞き出して楽しく話をさせるよう心掛けました。でも結構しんどいです。

21時に義父をアパートに送り届けて、洗濯物とゴミを持って帰って、洗濯して翌日届けてを繰り返して、21時30分頃一人でシャワーを浴びるのがもし倒れたら怖いので見守ってくれと再度僕の妻が呼び出されて仕方なく行って見守るようにしました。

「娘なら面倒見るのが当然じゃろう」と大声で怒鳴ったり、本来なら面倒を見るはずの長男である義弟には頼らずに長女の僕の妻にばかりに頼る義父に、何故我が家だけがこんなに応えないといけないのか?という思いが強くなって妻も僕もどんどんメンタルが疲弊して来ました。

このように義父を世話するようになりました。